プログレ(空虚、大作)を表現した伝説の「PINK FLOYD ピンク・フロイド」って?
ピンク・フロイドと聞くと、プログレッシブ・ロックという言葉を定着させた功績や、名盤「原子心母」「狂気」「ザ・ウォール」などの名前が上がります。スーパー・ロック・グループとしての伝説がいくつもありますが。実際どれほどすごいバンドだったのか?そのメンバーはどんな人間だったのか?ちょっと僕なりに紹介したいと思います。
ピンク・フロイド、シド・バレット、ロジャー・ウォーターズ、デイヴ・ギルモアの思いが新しい現代音楽を作り上げていった。
ピンク・フロイドのアルバム・セールス
ピンク・フロイドの累計作品売上枚数は、2億5000万枚以上と言われており、「史上もっとも売れたアーティスト」8位。「狂気」は、全米41週ランクインした。グラミー賞受賞。ロックの殿堂入りも果たしている。
「狂気」5000万枚。 「ザ・ウォール」3000万枚。 「炎」2300万枚。驚異的な売上で成功した。
ちなみに、「史上もっとも売れたアーティスト」1位は、ビートルズ。2位、エルヴィス・プレスリー。3位、マイケル・ジャクソン。4位、マドンナ。5位、レッド・ツェッペリン。裏切らない順位でした。
ピンク・フロイド表現集団の歴史 結成~原子心母まで
ピンク・フロイドは、パブでブルースを弾いていた!?
64年、ロンドンのリージェント・ストリート工芸学校の学生だったロジャー・ウォーターズ(g,bs,vo)、ニック・メイスン(ds)、リチャード(リック)・ライト(kbd)は、他3人とシグマ6という名で6人編成のバンドを結成。その後、バンド名がころころ変わり、どれもスクール・バンドの域を出なかったよう。
65年秋、リック、ロジャー、ニックの3人はロジャーの友人で当時アート・スクールの学生だったシド・バレット、ジャズ・ギタリストのボブ・クローズを加え、ピンク・フロイド・サウンドなる新グループを結成する。
当時、地元のパブやクラブでボウ・ディドリー、チャック・ベリー、マディ・ウォーターズ、ジミー・ウィザースプーンなどのブルース黒人音楽のコピーが彼らのレパートリーだった。当時のイギリスは、空前のブルース・ブームで、ローリング・ストーンズ、クリームが人気のロック・バンドだった。
シド・バレットが崩れ始める
オーソドックスなブルースを演奏したかったボブが脱退。バンド名も「ピンク・フロイド」に改名。リード・ギターはシドが担当する事になった。と同時にシドは、精力的に曲作りを開始、バンドは必然的にシドの感覚とコンセプトを中心に動き出します。
彼らのライブは、次第にロンドンで評判になり、各社争奪戦の中67年2月にEMI/コロンビアと5000ポンドで契約。早速のデビュー・シングル「アーノルド・レイン」は全英チャート20位まであがり、まずまずのヒットと成果をだした。
その後の「エミリーはプレイガール」は全英6位まで上昇。続いてファースト・アルバム「夜明けの口笛吹き」は全英チャート6位まであがるヒットになった。全11曲中8曲がシドのオリジナル曲が占めた、2曲がシドと他のメンバーとの共作。この時代は、完全なシドのワンマン・バンド状態だった。
だがこの頃からシドは精神のバランスを崩し、ライヴに支障が出る様になって来た。追い詰められたメンバーは、シドの古い友人でディビッド・ギルモア(g)を迎えて事態打開をはかる。この時代バンドメンバーは5人になったが、やがて、シドは、ソングライター、レコーディング・メンバーとしてバンドに残り、ライブには参加しない事になった。
プログレッシブ・ロックの象徴:ピンク・フロイド
ロジャー・ウォーターズがバンドの中心的役割を担うことになり、シド=ピンク・フロイドのイメージを持ったファン離れが起こり始めていた。そんな中の2枚目のアルバム「神秘」は、シド参加曲が3曲を含む。後のピンク・フロイドのサウンドの原型がここに見える。ピンク・フロイドののサウンドの原型とは、想像力を掻き立てられる抽象的なサウンドで、内包的で控えめなメッセージといった型だ。アルバムは、全英9位まで上昇。
この頃から、映画、TV番組などの音楽も手掛ける様になり、3枚目のアルバムになる「モア」は、バルべ・シュローダー監督の映画サントラだ。13曲が収録された小作品集で、ブルースからフラメンコ風まで完璧に構築されている。
また、ステージでも彼らは、こだわりその秘湯が360度の円形サウンドシステムで、会場全体を別世界に仕立て上げようとした。会場の真ん中には、川が流れる音が出て、上空では小鳥がさえずり、後方では木々が風邪でざわめいている。この効果に観客は酔った。
ロジャーは、サイケデリック・ミュージックとは何か?という質問にこう答えたことがある。
「きみもときどき違う人間になりたいと思わないかい。人間じゃなくていい。たとえば鳥とかに。でも鳥になるのは不可能だ。だから鳥になったような錯覚をおこさせて、一時的に現実逃避をはかるのさ。それをドラッグじゃなくて音楽でやろうというものさ。」
この時期のピンク・フロイドの方向性を表した言葉だと思う。
70年代のピンク・フロイドの大作 遂に全英1位
2枚組の「ウマグマ」をリリース。ライヴの4曲とソロ・ワークを収録したアルバムで、実験色の濃いアルバム。全英5位、全米でも74位を記録。
70年代に入り、「原子心母」の制作にとりかかる。多くの音楽誌はこれをピンク・フロイドの最高傑作として称賛している。アルバムは、クラシックとロックの融合させた画期的作品として評価されることが多い。
メンバーは、シュールで幻想な夢を壮大に演出することにすでに疲れ始めていたという。歌詞も内向的で率直な飾らない心情を書いた。たしかに小作品集のA面と「原子心母」を収録したB面には、かなりのギャップを感じる。
「原子心母」は全英1位、全米55位、日本でも大ヒットした。プログレッシブ・ロックの名称が定着したキッカケになった作品でもある。
ピンク・フロイドの成功のジレンマ
73年『狂気』がリリースされる。イギリスでは2位、アメリカでは1位を記録したこのアルバムは、以降88年までなんと連続724週にわたってトップ200に居座り続けるとういう空前のモンスター・セールスを記録。
これほどのヒットをメンバーはもちろん、予測していたわけではなかったが、ロジャーは、過去のものに比べて歌詞をより分かりやすく、平明な言葉を選んだ。またアルバム全体のコンセプトも設定した。それが、「Dark Side of The Moon–もうひとつの世界」だ。
死ぬまでに聴くべきアルバム:PINK FLOYD ピンク・フロイド / Dark Side of The Moon「狂気」
続けてイギリス、アメリカでの機材総重量12トンという空前のスケールでおこなわれたツアーはまたも絶賛を浴びた。
メンバーは、デビュー以来の長期休暇を取り、自作の構想を練った。
9枚目のアルバム「炎」がリリースされたのは、75年の秋になってからだった。ロジャーは、アルバム完成直後のインタビューでこの2年間バンドは実質的な解散状態だったこと、そして、自分たちがやりたかった事と、実際にやった事とにギャップがある事も認めた。
『炎』は『狂気』には及ばなかったものの、英米で1位を記録、ピンク・フロイドの神話はまだ健在だった。
76年にすべてを費やしたと言われる10枚目のアルバム『アニマルズ』をリリース、全英2位、全米3位を記録した。このアルバムは、直接的な痛烈な社会批判で、人間の狂気、個人対世界の葛藤、違和感も具体的に突っ込んだ作品だ。
79年にいよいよ大作の『ザ・ウォール』の2枚組アルバムがリリースされた。シンプルでストレートさが強調されていて、かつての幻想的な印象は薄れている。アーティストとしてのロジャーのすべてを注ぎ込んだ作品になった。全英3位、全米1位を記録。
死ぬまでに聴くべきアルバム:PINK FLOYD ピンク・フロイド / The Wall「ザ・ウォール」
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