イギー・ポップ/パンクの源流から知性的ソロ・アーティスト

2018年4月にイギー・ポップのドキュメント映画『アメリカン・ヴァルハラ』が日本で公開される。

映画『アメリカン・ヴァルハラ』オフィシャルサイト

2016年に発売されたイギー・ポップ最後のアルバムとも噂されている「POST POP DEPRESSION」。イギーが自費でレコーディングを計画し、自らQUEENS OF THE STONE AGEのジョシュ・ホーミにプロデュースを打診したところから始まったこのアルバムは、イギー・ポップ名義作品でも最大級のヒットのひとつとなり、またアルバムに伴うツアーは全公演ソールドアウトとなる成功をおさめた。

イギー・ポップというアーティストの軌跡をちょっとおさらいしてみようと思う。

 

パンクの源流で異端児

アメリカ、デトロイト出身で、若い頃からブルース狂だった彼は、数々のシカゴブルースマンとの共演で、真のブルースは黒人以外には出来ないことを悟る。そしてストゥージス結成直後の、MC5、ドアーズとの出会いが、イギー・ポップの音楽活動の原点となった。ブルースとの訣別が、ルーツ・ミュージックへの傾倒を防ぎ、その反動がメタリックで異世界なミュージックの最深部まで到達させた。




MC5の攻撃性、ドアーズの内向性は、まさに当時異端の道を歩まざるを得なかった。

デビューアルバムは、69年の8月で、同じ週にヒッピー・ムーヴメントの集大成であるロック史上最大規模の祭典と、憎悪と自虐と狂気の生誕が同時だったのは、興味深い。能天気なフラワー・パワーを真っ黒に塗り潰した彼らは、20世紀のアメリカ、資本主義が生み落とした鬼っ子な存在だった。

ストゥージスは、外界との激しい違和感と内面のフラストレーションと怒りを毒の様に吐き出した。そして、そのありかたこそ、彼らがサウンド面だけでなく、メンタリティーにおいても、後のパンク、ニュー・ウェイヴの先駆けとなった。

名声が高まるにつれ、バンドの他のメンバーとのギャップ、そして自らのクリエイティブをはるかに超える過大評価からくるプレッシャーが彼を押しつぶしていく。

知的なソロ・アーティストとしての復活

74年頃は、ヘロイン、ドラッグに冒され自らをナイフなどで傷つけるなど、自己破壊への道を転がり続けていたが、遂に暮れには、意を期して精神病院に入院しドラッグからのリハビリに専念することになった。

その後75年には、病院から外出許可をもらい、ジェームス・ウィリアムスンと共に新曲作りのでも録音なども行っている。(77年のアルバム「キル・シティ」として発表)

この頃のイギーに援助したのが、デヴィッド・ボウイだった。ロスの病院にイギーを見舞ったボウイは、75年の5月にロスの小さいスタジオででも録音を行っている。76年には、ツアーにイギーを友人として同行させ、5月には、イギーとのパリで本格的にレコーディングを開始。今でいうコラボだ。このコラボレーションは、さらに発展し、77年3月に発表された『イディオット』だ。




作曲を全面に手掛けたボウイの色が強いが、ボウイにとってもクリエイティブで大いなるインスピレーションを得たのではないだろうか。いままでの暴力的ロッカーが払拭されて知的なロッカーとしてのイギー・ポップの魅力を大きくアピールする彼の天気となる作品だ。

 

タフに仕事をこなすことをボウイから学んだイギーは、ソロ・ツアー、ライヴ盤リリースと見事に過去のブランクを乗り越え復帰。折しも、セックス・ピストルズ、ダムド等によるパンク・ムーヴメントまっただなかで、彼等がストゥージスの曲をカヴァーしたり、過去のアルバムが再リリースされるなどで、イギーは、”パンクのゴッドファーザー”としての名声と、アーティストとしての新たな創造性を打ち立てたのだ。

 

 

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