ロックを育てたプロモーター「ビル・グラハム」の歴史!

Bill Graham ビル・グラハム。ロック好きな人なら、この名前を一度は耳にしたことがあるだろう。サンフランシスコにライブハウス・フィルモアを設立し、フラワー・ムーブメントを育て、巨大ロックイベントを陰ながら支え、その後チャリティイベントの成功へと導いたロック界を代表するプロモーターだ。

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彼の果たした役割はビートルズより大きいかもしれない。まさにレジェンドなのだ。今日は、このビル・グラハムについて探っていこうと思う。

 

<ユダヤ人迫害から奇跡的の生還>

ビル・グラハムは1931年1月8日、ベルリンで産声を上げた。ビルの父、ジェイコブ・グランジョッカは、ユダヤ人系ポーランド人で、ビルが産まれたすぐ後にこの世を去った。そのため、ビルは姉たちと共に、ロシア系の母親フリーダによって育てられた。

 

その頃、ベルリンではナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の魔の手が迫っていた。家族が命の危険に迫られていることを知った母親。ビルは姉と共に、孤児院に預けられた。他の姉たちも命の危険を免れた。ただ母親だけは、貨物列車の中で毒ガスの中で殺害されてしまった。

 




エンターテイメントにおいて、偉大な発明を起こした人間というのは、不遇時代を経験しているものである。ハリウッドもユダヤ人によって起こされた。黒人も白人による迫害を受け、偉大な音楽を築き上げた。ビルのエンターテイメント性と反骨精神は、このユダヤ人迫害によって引き起こされたのかもしれない。

 

Mick and Bill

Mick and Bill

 

<孤独な日々>

1941年9月21日、ビルはニューヨークに到着した。身寄りのない10歳の少年には家族が必要だった。ようやくニューヨーク郊外の施設で新たな両親となる夫婦と出会うことができた。それまで実に9週間ビルは待ち続けた。この心の傷もまた、ビルの音楽人生に多大なる影響を与えた。

 

<ジャズとラテンとの出会い>

だが、ビルは新しい父親のことを好きになれなかった。また、政府からの補助金で生きることも拒んだ。彼は勉強よりもお金を稼ぐことにいそしんだ。大金を手にしたビルは、そのお金を使って、映画館やクラブへと足を運んだ。

そこでビルはザビア・クガートのラテン音楽やカウント・ベイシーなどのジャズ音楽に入り浸った。ラテン音楽とジャズ音楽にはまったビルは、アマチュア・ダンス・コンテストで優勝するほどにまでなっていた。

 

 

Concert and Bill Graham interview at Fillmore West
(Featuring Peter Green’s Fleetwood Mac)

音声が途切れるが、当時の「Fillmore West」の様子と「Bill Graham」のインタビューが見れる。

Bill Graham Present Poster Tシャツ




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<俳優として挫折>

 

ビルはある誘いを受けて、サンフランシスコへと移った。そこで演劇の勉強を始め、ニューヨークのアクターズ・スタジオであるリー・ストラスバーグの指導を受けるチャンスを拾った。

 

しかし、ニューヨークでは、親方と折り合いが合わず、再びサンフランシスコに戻る。そこで演劇集団マイム・トゥループの裏方を始める。

 

<プロモーター「ビル・グラハム」誕生>

 

マイム・トゥループは政治・文化・芸術のパワーを凝縮した力を持っており、後に全米に広がるフラワー・ムーブメントの原点だった。

 




ビルは重要な裏方を取り仕切ることにより、「これこそが未来のビジネスだ」と直感した。そこで、裏方として生きるだけでなく、自分自身で公演を企画するようになった。

 

プロモーター「ビル・グラハム」はかくして誕生した。

 

<フィルモア・オーディトリアム誕生>

 

マイム・トゥループはゲリラライブによって警察に逮捕された団員を救うべく、ベネフィット公演を成功させる。その後、再びベネフィット公演を実行するが、このとき、ほとんどをビルが仕切った。そのとき会場としてビルが選んだのが、サンフランシスコの黒人街に立つライブハウス「フィルモア・オーディトリアム」だった。

 

フィルモアの支配人になったビルは、マイム・トゥループなどの人気バンドたちの力を借りながら、新しいライブのスタイルを築き上げていく。

 

<時代はサイケへ>

1966年1月、フィルモアで「トリップス・フェスティバル」なるイベントが開催された。これはサンフランシスコで盛り上がりつつあったサイケデリック・ムーブメントの総決算的なイベントだった。この頃のヒッピー文化を代表する人々が終結した。

 

ビルの仕切りにより、フィルモアはどんどん知名度を上げ、そこに出演するアーティストたちも、徐々に全国区の人気者へと成長していった。

 

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当時ビル・グラハムが企画したコンサートのポスターデザインは、現在では、サイケデリックアートとしても、初版盤等は高額で取引きされている。

 

<ロックを育てた男「ビル・グラハム」>

 

ビルはフィルモアという会場で、ロックという新しい音楽を、エンターテイメントの一ジャンルに育てた人物だった。

 

フィルモアで育ったアーティストは無数に及ぶ。エリック・クラプトン、 B・Bキング、ジェイムス・ブラウン、チャック・ベリー、ザ・バンドなどなど…。

 

世界を魅了した音楽の原点にフィルモアがある。そのフィルモアを作り上げたのがビルだ。ビル・グラハムの名前は記憶と記録と共に残されなければならない。

Bill Graham Present Tシャツ




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