ロックの歴史 第2期【1965~1969】フォーク・ロックからウッドストックまで

ロックの歴史:フォーク・ロックの誕生

ロックンロールやR&Bのカヴァーから出発したビートルズの音楽は、独自の進化を遂げ、その影響は、その後の音楽シーンには計り知れないほどの影響を及ぼしました。ビートルズに続き、ローリング・ストーンズ、アニマルズ、デイブ・クラーク・ファイブ、ハーマンツ・ハーミッツなどのイギリスバンドがアメリカ進出し、その現象は、ブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ばれました。

1965年のロックの歴史における最大の事件は、フォークロックの誕生だったでしょう。ビートルズとボブ・ディランの音楽にインスパイアされ、高音部を強調した3声のヴォーカル・ハーモニー、12弦エレクトリック・ギター、ガレージ仕様のサーフィン・サウンドなどによって構成されたバーズのフォーク・ロック・サウンドは、その後のロックの進むべき方向を指し示すものでした。

ほぼ同時期にボブ・ディランも「ライク・ア・ローリング・ストーン」で独自のフォーク・ロック・サウンドを発見していました。

65年~66年には、バーズの「ミスター・タンブリンマン」や「ターン・ターン・ターン」、ソニー&シェールの「悲しきベイブ」、バリー・マクガイアの「明日なき世界」、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」など、フォーク・ロック系のヒット曲が全米チャートを独占しました。

ビートルズの『リボルバー』、ボブ・ディランの『ブロンド・オブ・ブロンド』、ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』という傑作がリリースされた66年は、アルバムLPの時代の到来を予告する年であり、それは同時にロックの歴史に近未来を予感させる年になりました。

ロックの歴史:サイケデリック・ロックの時代へ

ビートルズが導入したテープの逆回転やテープ・ループなどによる実験的なサウンドは、多くのミュージシャンたちに影響を与え、ロックシーンはサイケデリック・ロックの時代へなだれ込んでいくことになります。

実験的なサウンドの集大成ともいえる『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ』がリリースされた67年には、米英のあらゆるロック・バンドがサイケデリック・サウンドに挑戦し、それぞれに意欲的なコンセプト・アルバムを作り上げていきました。

67年、新しいものに対して貪欲なイギリスのロックシーンでは、クリーム、プロコル・ハレム、トラフィック、フリートウッド・マック、ムーディー・ブルース、スモール・フェイセスら新人バンドが台頭。アメリカからやって来たジミ・ヘンドリックスの才能をいち早く認めたのもイギリスのシーンでした。

67年にはすでにヒッピーの聖地と化していたアメリカのサンフランシスコでは、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、スティーブ・ミラー・バンド、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、サンタナらが長時間の即興演奏を取り入れたサイケデリック・サウンドを作り上げ、ラブ・アンド・ピースのスローガンを唱えたフリー・コンサートなどで人気を博していました。


グレイトフル・デッド

67年6月にサンフランシスコ郊外のリゾート地モンタレーでインターナショナル・ポップ・フェスティバルが開催され、(このフェスティバルが最初のロックフェスのいわれてます)まだ無名だったジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがスーパースターへの最初の一歩を踏み出していました。

この年の夏は ”サマー・オブ・ラブ” と呼ばれ、オールド・ファンにはヒッピーとロックの夏として記憶されることになり、ロックの歴史に色付けした年になりました。

ロックの歴史:さまざまな音楽性

一方、ロサンゼルスでは、ドアーズ、バッファロー・スプリングフィールド、モビー・グレイプ、ラヴ、マザーズ・オブ・インヴェンションらが独自のサイケデリック・サウンドを開拓し、ニューヨークではラスカルズ、ラヴィン・スプーンフル、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドらがそれぞれの音楽性を追求していました。

また、黒人アーティストたちのR&Bも進化しつつありました。60年半ばには、スモーキー・ロビンンソン&ザ・ミラクルズ、フォー・トップス、シュープリームス、マーヴィン・ゲイらを擁するモータウン・レーベルが洗練されたソウル・サウンドでビートルズらのイギリス勢に対抗していました。

南部では、天才的なソウルシンガー、オーティス・レディングが登場し、ジェームス・ブラウンは、すでに独自のファンク・サウンドを想像していました。

当時、様々な場所で新しい音楽が産声をあげました。ブルース、カントリー、R&B、ジャズ、フォーク、クラシック、民族音楽など、さまざまな音楽の要素が混じり合い、新しいサウンドが生まれようとしていた時代でした。ロックの歴史の中で、50年代に生まれた「ロックンロール」が「ロック」と呼ばれるようになったのも、この頃です。

ロックの歴史:愛と平和のメッセージ

60年代後半のロックは、ベトナム戦争や人種差別に反対するカウンター・カルチャーの象徴のように考えられていました。実際にジェファーソン・エアプレインやカントリー・ジョ―&ザ・フィッシュなどの一部の例外を除き大多数のロック・ミュージシャンたちの姿勢は、非政治的なものでしたが、愛と平和を歌うことが反体制的だった60年代後半にはあらゆるロックがその象徴として扱われました。

67年6月、世界初の衛星中継によるテレビ番組に出演したビートルズは、ロンドンのアビー・ロード・スタジオから新曲「All You Need In Love 愛こそすべて」を歌い、世界中で2億人を超える人々がその光景を同時に目撃しました。それは、ロックの歴史の中でも、ロックの世界音楽化を証明する第一歩で、巨大なメディア・ネットワークを通して発信された彼等の愛と平和のメッセージは多くの若者たちを心躍らされた。


All You Need Is Loveをスタジオで歌うビートルズ

が現実の世界で効力を発揮したわけではなかった。現実は、ベトナム戦争の泥沼化、マーティン・ルーサー・キング牧師、ロバート・ケネディ上院議員の暗殺などが起こり。反体制運動はより過激化し、ロックのサウンドより、ラディカルに変化していきました。60年代後半は、ロックとカウンター・カルチャーとの密月時代のピークとなります。

ロックの歴史:伝説のロックフェス ウッドストック

69年8月にニューヨーク郊外のヤスガーズ・ファームで3日間にわたって開催されたウッドストック。ミュージック&アート・フェアは、それをまさに象徴するような一大イベントでした。出演したミュージシャンは、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、サンタナ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジョン・セバスチャン、カントリー・ジョ―&ザ・フィッシュ、ジョーン・バエズ、ジョー・コッカーなどの32組にも及び、40万とも50万とも言われる聴衆が集まった。


本当にすごい人の数です。

何もない野原の真ん中に若者たちだけの共和国が出現したかのような光景を見て、左翼運動家のアビー・ホフマンは彼等を「ウッドストック・ネイション」と名付けました。

予想をはるかに超える聴衆が集まったために、食糧不足、トイレや医療費説の不備、おおあめにより環境劣悪化などもありましたが、参加した若者は互いに助け合い、フェスティバルは無事に閉幕しました。

ウッドストック・フェスの成功は、若者たちの夢の実現が決して不可能ではないことを証明しているかのように彼等を思わせた。愛と平和とロックがこの世界を変えるかもしれない、という夢。

しかしその夢は長くは続かなかった、、、。

ロックの歴史:オルタモントの悲劇

69年12月6日、カリフォルニア州リヴァーモアのオルタモント・スピードウェイで行われたローリング・ストーンズのフリー・コンサートで、観客の黒人と青年が、会場警備に当たっていたヘルス・エンジェルスによって惨殺される事件が起こりました。

後に「オルタモントの悲劇」と名付けられたこの惨劇の模様は、ドキュメンタリー映画「ギミ―・シェルター」(1970年)に記録されています。

 


事件直後のステージ上のミック・ジャガーとヘルス・エンジェルス

愛と平和とウッドストックの幻想を一撃で破壊したこの事件は、音楽関係者やロック・ファンに大きな衝撃を与えました。その後も全世界でロック・フェスは開催されていますが、さまざまな混乱や事故が続き、フェス・ブームは短期間で終息していきました。

そしてこの「オルタモントの悲劇」は、60年代の夢の終焉を象徴する出来事として語り継がれることになります。

 

 




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