ニルバーナ:カート・コバーンの成功と悲劇

シアトルのインディー・レーベル「サブポップ」から1988年にデビューしたニルヴァーナ。91年に発表したセカンド・アルバム『ネバ―・マインド』は、当時まだアンダーグランドだったグランジ、オルタナティヴ・ロック人気の火付けのきっかけとなり、90年代のロック界に強烈なインパクトとその後の影響を与えました。そんな中、カート・コベインの自殺という衝撃的な結末でグループは解散することに。

カート・コバーン少年

カート・コベインは、1967年2月20日生まれで、ワシントン州ホークウィアムという保守的で貧しい小さい町で育ち。幼い頃から身体が弱く甘えん坊ながら、感情をむき出しに攻撃的な面も見せていたカートに父親は厳しくあたり、母親はあまやかす一方で、その両者の間でカート少年は気難しい少年に育っていきました。幼少期にADD(注意欠陥障害)と診断された事がありました。

9歳の時に両親が離婚し、その後カートは、親戚の家、両親の家とたらい回しにされることで、人間不信に陥り、人間関係がうまくいかず、自分だけの世界に閉じこもり、信じれるのは、自分だけの世界とますます心を閉ざしていきました。

この頃の70年代半ばは、パンクが新しい時代を切り開いた時期でしたが、カートは、クィーン、ボストン、レッド・ツェッペリン、等のハードな音楽の他にもチープ・トリック、ビートルズ等のメロディアスなポップスも聴いていました。その後、ブルース、カントリー、ブルー・グラス、フォークなども聴くようになり、音楽の幅を広げていきます。

14歳の誕生日にギターをプレゼントされたカートはギターの魅力にはまり、ツェッペリンやAC/DCをコピー、急速に腕を磨いていきました。高校に進んだカートは、2歳年上のクリス・ノヴォゼリックと意気投合し、バンドを結成。まだドラマーがはっきり決まりませんでしたが、ブラック・フラッグ、ツェッペリン、ブラック・サバスのハードは部分とビートルズ、チープ・トリックのメロディを併せ持つ音楽を目指していました。

バンド名を「ニルバーナ」に命名。

カートは、この頃から背骨が曲がる持病「脊柱側弯症」で、慢性的な胃痛に悩まされ、その苦痛から逃れるためにヘロインなどのヘビードラッグに手を出すようになります。シアトルでは、インディーズ・レーベルの「サブホップ」がサウンド・ガーデンなどシアトル・グランジ・サウンドの震源地として注目されていき、ニルヴァーナはその中心でした。

90年代の「グランジ」は、音楽ジャンルだけでなく、ファッションや思想も含めたライフ・スタイルを意味するようになり、そんなグランジを支持したのは、ベビーブーマー世代を親に持ち、またその両親が離婚しており、両親の時代より、貧しく育った世代(ジェネレーションX:1960年代半ばから70年代生まれ)です。

カート・コベインの曲、歌詞は、ジェネレーションX世代の不安感や、孤立感、無力感を見事にあらわしていました。

バンドもアルバム発売「ブリーチ」と同時におこなわれた全米ツアーが終わるころには、アメリカ中が注目するバンドになり、カートが敬愛したミュージシャンも彼等のライブを絶賛し、カート自身もやりたいことがまっすぐに受け入れられ、十分な称賛を浴びていきます。

ドラムのチャドを解雇し、デイヴ・グロールがドラムに加入し、パワフルなドラミングでニルヴァーナのサウンドは一層厚みが出るようになります。また、インディーズ・レーベル「サブポップ」との決別で、よりポップでメロディアスな楽曲を作りはじめ、メジャーとの契約を待ちました。

ニルバーナ:90年代の最高傑作『ネバ―マインド』

90年春にゲフィンと契約。91年にLAにてメジャー第1弾アルバムを制作。11月にリリース『ネバ―マインド』。セカンド・アルバム『ネバ―マインド』は90年代の最高傑作というだけでなく、聴き手に響くキャッチーなサウンド、感情を叫ぶカートのヴォーカル、不安定で絶望感に苛まれながらポップな仕上がりが大ヒットにつながり、アメリカ、ヨーロッパ、日本など8か月のツアーの最中にアルバムはチャート1位になりました。

カートはこの時期にコートニーと結婚しますが、プレッシャーからかますますドラッグに依存するようになっていきます。

 

連日のステージでの破壊行為、暴言を吐き、暴れまくり度を越えた酒とドラッグ。好奇の目が集中し、カートの苛立ちは隠しようがなくなっていきます。バンド活動にも支障をきたすようになったところで、93年初心に返るべく臨んだサードアルバム制作『IN UTERO』は、カート・コベイン生前最後のアルバムが完成。

 

アルバム発表後、過密スケジュールのヨーロッパ・ツアーからのストレスかヘロインの大量摂取と深刻な鬱状態に陥り、コートニーとの口論も絶えず、各地での演奏もボロボロで、ついにミュンヘン公演を最後にツアーは中断となります。その2日後、宿泊先のローマのホテルで精神安定剤を50錠以上を飲み、意識を失っているところをコートニーに発見され、一命を取りとめるという惨事。

 

コートニーやスタッフ、メンバーの必死の説得でLAのドラッグ・リハビリ施設へ入院することになるが、2日後にこの施設から脱走、そのままシアトルの自宅に戻り、自宅の寝室でショットガンで頭を打ち抜き自殺。享年27歳。

参考文献:レコード・コレクターズ 他

 

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