エリック・クラプトンの波乱な人生①:生い立ち~クリーム時代

エリック・クラプトンの生い立ち

エリック・クラプトン(本名エリック・パトリック・クラプトン)は、1945年3月30日にイギリス、サリー州のリブリーで、母パトリシアとカナダ兵士との間の私生児として生まれました。母は当時16歳と若く。後に彼女は別の男性と結婚することになり、エリックは、レンガ職人をやっていた祖父母のもとで育てられることになります。祖父母はエリックを溺愛しましたが、成長過程では、こういった家庭環境がさまざまな影を落とすことになりました。動物を可愛がり、絵を描くのが好きだった内気な少年が、ブルースの内省的な感情表現に惹かれていったのは、当然だったかもしれません。

 

サリー州は、ロンドンのすぐ南に位置し、田舎町ながら都会の情報も入ってきていたようです。彼はファッションに夢中になると同時に13、14歳の頃には、爆発的にヒットしたエルヴィス・プレスリーバディ・ホリーのロックン・ロールに惹かれていきました。さらにそのルーツであるブルースのミュージシャンたちへの興味は深まっていき、16歳でギターを買い、自己流で弾きはじめる様になりました。最初はアコースティック・ギターで、ロバート・ジョンソン、ビック・ビル・ブルーンジーなどのブルースマンのコピーからはいっていき、マディ・ウォーターズB・B・キングらのモダン・シカゴ・ブルースへと興味を広げていきます。

 

エリック・クラプトン 初のバンド活動

当時の彼は、キングストン・アート・カレッジに通い始めていましたが、音楽熱が高くなるにつれ、学校に通うよりもレコードをあさるかギターの練習をしてるかの生活になっていき、数か月で学校を追い出されてしまいます。この頃18歳の少年がプレイできる場も機会もあるわけでなく、彼は祖父母の仕事も手伝ったりもしたようです。キングストン界隈でパートタイムでプレイをしているうちに、彼の派手な衣装とギターの腕は評判となり、彼の最初のバンドは、「ロード・アイライド・レッド&ザ・ルースターズ」に63年1月から8月まで加入することになります。

 

 

続いてケイシー・ジョーンズ&ジ・エンジニアーズに参加しますが、このグループがマージー・ビート・ブームに乗ろうとしていたため、わずか7回のギグで抜ける事になります。

マージー・ビートとは、ビートルズの成功からリヴァプール、マンチェスター等でアメリカン・ロックンロール、ドゥ・ワップ、R&B、ソウル等が融合された音楽の総称で、日本では、リヴァプール・サウンドとも呼ばれます。

 

エリック・クラプトン:ヤードバーズ時代

次に入ったのが、キングストン・アート・スクール時代の顔見知りだった、キース・レルフがいたヤードバーズでした。グループは、ストーンズが抜けた後のクロウダディ・クラブの仕事が入るなど大きく飛躍する直前でしたが、ギターのアンソニーが家族の反対にあい、脱退してしまいます。

比較的簡単にグループに参加していたクラプトンでしたが、クラブ・オーナーのジョルジョ・ゴメルスキー(彼があの”スロー・ハンド”と命名)が主催するブリティッシュ・R&B・フェスティバルでサニー・ボーイ・ウィリアムスンⅡなどのバッキングを務める事でいよいよブルースへの熱が高まる事になります。

何かに凝るととことん追求しなけば気が済まない完全主義的なところもあり、また若かったこともあり、ブルースは本物の黒人以外は認めないという気持ちがあった様です。各メンバーに対するフラストレーションも溜まり、ますます活況をおびてくるポップ・シーンに目配りするヤードバーズとマネージャーと「フォー・ユア・ラヴ」での対立がきっかけで、グループ脱退となりました。63年10月から65年3月のほぼ1年半の在籍でした。

問題の「For Your Love」は、こんな曲です。

 

この頃、チャートを賑わしていたのは、1964年2月から7週連続チャート1位にビートルズの「抱きしめたい/I Want to Hold Your Hand」、3月から2週連続1位「She Loves You」、4月から5週連続1位の「Can’t Buy Me Love」5月の「Love Me Do」、8月の「A Hard Day’s Night」などビートルズがチャートを総なめしていた時代です。他シュープリームス、アニマルズ、ビーチボーイズ等がチャートに入りました。

 

エリック・クラプトン:ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ時代

さて、ヤードバーズを脱退したクラプトンにすぐに声を掛けたのが、オーティス・スパンなどのセッションで顔なじみとなっていたジョン・メイオールでした。マンチェスターからロンドンにやってきたメイオールが、63年に作ったブレイカーズは度々メンバー交代を重ねて、クラプトンが加入した時は、第6期にあたり、メイオールがオルガンとヴォーカル、ジョン・マクヴィがベース(後にフリート・ウッド・マック)、ヒューイ・フリントのドラムスとういう構成。

 

 

実質的には半年足らず一緒にやったいただけでしたが、ここでのアルバム「ブルースブレーカーズ with ERIC CLAPTON」のアルバムにより、クラプトンのキャリアの中で重要な時期とアルバムになりました。イギリスのその後のブルース・ロック・ブームの盛り上がりの象徴的なアルバムとなり、ギターリスト、エリック・クラプトンの名が広く認知され始めました。

急速に拡大していくロックの表現は、多くのミュージシャンに影響を与えていき、クラプトンもその例にもれず、スティーヴ・ウィンウッド、ポール・ジョーンズ、ジンジャー・ベイカーなどとのセッションの経験を経て、ブルースをコピーするブルースブレイカーズの世界に飽き足らなくなった彼は、ジンジャー・ベイカーの誘いに乗り、ジャック・ブルースがベースを条件にクリームの結成を承諾します。

スティーヴ・ウィンウッド:ヴォーカル、ギターリスト。のちにバンド:トラフィックで成功し、69年にエリック・クラプトンとブラインド・フェイシスを結成する。

 

 

エリック・クラプトン:クリームに加入

クリームは66年7月3日、第6回ナショナル・ジャズ&ブルース・フェスティバルでステージ・デビューを飾ります。レコードは、10月にシングル、12月にアルバムを発表。

 

 

卓越した3人の技量は、最低限の編成の中でもソロ・プレイを披露するこのグループに門戸を最初に大きく開いたのが、ビル・グレアムが運営するフィルモア・ウエストでした、ここで大絶賛あび、3か月にわたる全米ツアーを成功させます。クリームは純粋なアーティスト衝動とマネージャーであるロバート・スティグウッドの巧みなパブリシティ戦略によって作られたという両面を持っていました。また、そのサウンドは、先のヘヴィ・メタルに通じる源流ともなります。

しかし、クリームは、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの愛称の悪さが原因で67年の11月26日、ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートを最後に解散してしまいます。

(出典 レコードコレクターズ)

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